三つの選挙の魔術性

投稿者: | 2018年9月19日

十一月は「選挙の月」とでもいうべきか。アメリカの大統領選挙についで、沖縄の主席選挙、最後に自民党の総裁選挙がひかえている。自民党の総裁は、日本では大統領に相当する権威だから、三人の最高責任者が同じころに選出されることになる。

これら三つの選挙を比較してわかることは、形の上からいうと、沖縄の選挙がいちばん進んでいることだ。というのは、沖縄の選挙は、全島民による普通選挙、直接選挙であるのに反し、アメリカの大統領選挙も、自民党の総裁選挙も、二重選挙、間接選挙で、大多数国民の意思が正しく反映しているとは思えないからである。

こんどのアメリカの大統領選挙の結果を見て、だれもが異様に感じることは、一般投票の面では、ニクソン、ハンフリー両候補の得票が、いずれも四三パーセントで、その差は五万程度にすぎない。それでいて、選挙人のほうでは、二九九対一八一という大差になっている。アメリカ国民の意思表示としては、果たしてどっちが正しいのであろうか。この大きな狂いはどこから発生したのであろうか。

一般投票の面では、競馬、競輪でいえば、写真判定を必要とするような大接戦ということになり、選挙人の獲得では、ニクソンの圧倒的勝利となる。ここにこの選挙の魔術性、トリック的性格が端的に示されている。

同じことが自民党の総裁選挙についてもいえる。自民党の総裁に選ばれたものには、次期首相の地位が用意されているのだから、実質的には日本の首相選挙である。それが自民党に属する衆参両議員と自民党の都道府県代表者、合わせて五百人足らずの投票によって選ばれる。この五百人足らずが一億国民の利害を代表するのだから、一人で約二十万人分を代表することになる。いったい、彼らはどうしてこの権利を獲得したのであろうか。

これは、まさしくデンスケとばくの一種である。このイカサマが「民主主義」「議会政治」 の名において公然と行われているのだ。

民主主義の代表者、擁護者をもって自任しているアメリカで、このような不合理な選挙形式が採用され、いまも行われているのはどういうわけか。開拓時代、この新天地に新しい移住者が続々入りつつあったころ、前からここに根をおろしていたボスたちが、その既得権を守るために、こういう選挙法を考案したものらしい。この時代錯誤の意思表示形式がいまも改正されずに行われているのは、古い既得権を守りつづけようとするボスどもがいまもアメリカ社会に巣くっていて、彼らの力がまだ強いことを物語っている。

一か八かのギャンブル

それにもう一つ、我々日本人に理解しにくいのは、大統領選挙人の選出は、州単位で行わ れ、その州の一般投票で一票でも多くとった候補者は、その州の全選挙人を独占することができるという制度である。現にニューヨーク州では四十三人、カリフォルニア州では四十人の選挙人が、一人の候補者に取られている。これでは、敗れた候補者に投じたものは、ことごとく死票になってしまう。

このような選挙法は、文字どおりにイチかバチかで、ギャンブルそのものである。これは各州がそれぞれ独立の国家であるという建て前から出たものであろうが、いまのようにマスコミの発達した時代に、このような地方主義が残されているというのは、どう考えてもおかしい。

〝不毛″から脱け出す道

これに似た矛盾は、いまのアメリカ社会にさがせばいくらでもある。これを合法的に改めるには、合法的な手続きを必要とするのであるが、その手続きそのものにも、前にのべたような大きな矛盾があるのだ。こんどの大統領選挙が、〝不毛の選挙″といわれる理由はそこにある。 国家や民族の現状を憂え、その将来についてまじめに考える人々の期待にそうような人物が大統領候補に選ばれる可能性がないという仕組み、現行の選挙制度、それを改廃することもできないという絶望感がそこから生まれる。

この絶望感に対処する方法が三つある。

第一は、〝常識″の線にそうもので、最善がなくとも次善を選ぶことによって満足する、いや、あきらめるという立場である。自分や家族の生活をささえねばならぬものの多くはこの立場を選ぶ。いや、それをしいられる。

第二は、主観的脱出である。その〝脱出″にも、いろいろあって、個人的な仕事や研究や金もうけや趣味やレジャーやセックスに向かって逃避するものもあれば、ヒッピー族やフーテン族の方向に向かうものもある。むかしの〝出家″がこれに相当するが、今日の社会ではそれも許されないので、これをつきつめていけば、社会からばかりでなく、人生そのものから引退するほかはない。〝蒸発″というのがそれだ。

第三は、このような現実への抵抗である。抵抗は現実の否定からはじまるが、これには現実に代わる代替物が用意されている場合と用意されていない場合とがある。国家や社会の現体制 についていえば、これに代わる青写真が用意されている場合の破壊は〝革命″ということになるが、権力の争奪に重点がおかれている場合は〝クーデター″、破壊のための破壊にすぎない 場合は〝反乱″となる。

近ごろの一部学生たちの行動は〝革命″から〝反乱″に近いものとなっている。彼らの求めているものは、〝敵″の全面降服であって、一切の妥協を拒否する。こうなると、彼らのねらっているものは現実の修正、改廃ではなくて、現実の全面的否定、否定のための否定である。

東大文学部の林学部長軟禁事件はそのいい例で、この事件はせんだっての金嬉老事件を思わせる。金嬉老は人殺しをした上、武装して山の中の旅館の一室に自分自身を軟禁し、多くの警官やマスコミ人ややじうまを相手に〝闘争″したが、これを裏返しにしたのが東大の学生たちである。まさに〝闘争″のゲーム化、レジャー化である。

こういう奇怪な現象が日本の最高学府においてどうして発生したか。それは、アメリカ の大統領選挙や自民党の総裁選挙に露呈された、これら二つの国家社会や、政治の大きな矛盾 に基づいている、とはいえないであろうか。

(昭和43年11月23日)